中国最古の医書「黄帝内経(こうていだいけい)」には、無形の肉体に気付いていたのではないかと思われる記述がたくさんあります。神の意図を受け取ることができる増田庸文老師は、中国の黄帝(神になられた)に質問を繰り返して、この医書の内容の理解を深めています。「黄帝内経」について、黄帝との質問のやりとりをブログよりご紹介いたします。

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2013年8月14日、2013年8月15日

黄帝は、むろん神でいらっしゃいますから、お呼びしてみました。

黄帝より

王の私を呼び出したところで、何を伝えることがあろうや。

私など、医学的な身体のことなど、何一つわかることなどありません。

しかしながら、その分野の卓越した者たちを集めて、厚くもてなし、彼等に思い通りの仕事をさせた、そういう功績が私にはあるだけのことです。

様々な埋もれている逸材を呼び出して、彼等の中でざわざわと騒ぎを起こさせて、

その中で真実を読み取っていく者たちの、意見を戦わせて出来たモノが、黄帝内径です。

私など、その者たちの感謝の気持ちを得て、私の名前がつけられただけのことです。私が何をしたというのでしょう。仕方なく運命を受け入れて、生まれてきたのです。

私は、初めからその任務を受け取って、仕事をするために神として生まれてきた人です。何事も大成したのではなく、すべては神からもたらされたことを、まとめ上げただけのことです。

私がまとめたのはなく、私の下に働く者たちがまとめあげたのです。私が受け取った一言を言えば、それをきちんとまとめ上げる。受け取った一言を言えば、きちんと整理する。そういう者たちが居ての「黄帝内経」だと理解してください。

致し方なく、与えられた任務を遂行するために生まれてきた者であると、伝えておきます。

あなた方に話をしたいと思います。あなた方に情報をたくさん渡しましょう。

しかし、間違わないようにしなさい。昔の「黄帝内経」が、すべて正しいと思わないでください。間違っているところがたくさんあります。当時は許されなかったことが、たくさんあります。許される範囲でしか書いていません。そのことを把握した上で、ひもといてください。

黄帝に伺います。

当時、無形の肉体と有形の肉体が、重なっているという概念はなかったのでしょうか?

そういう考え方は、無かったといえば無かったのですが、あったといっても間違いでは無いのです。しかし、明確に重なっているという認識は持てませんでした。

何かしら肉体上を気が走り、気の存在を認めていたものの、

それが同じように肉体上に重なっているという、明確な認識は出来なかったのです。

ただし、物質とは違う、無形の気の存在が、物質に先に指令をして動かしている感覚は分かりました。

我々が解明できたのは、この程度です。

ですから、書物の中には、このことは書かれていません。

肉体をとおしての感覚でしか、気の存在には触れられていません。

しかし、無形の存在があるように感じていました。

われわれは、西洋医学とは違い、人の身体を切り刻んで、中の内臓などを物質的に掌握することを好んでしていませんでした。生きている者の身体から、推察するということをしていました。死に至った者、病に至った者の身体を切り刻むということは、死者の意向に沿わないという気持ちから、それらのことが出来なかったのです。

しかし、致し方なく外傷などで、亡くなった者たちの内部を見る機会はある程度あり、内部の様子と肉体の様子で、見極めていくということをしていた者は、おりました。