東日本大震災から3年後の2014年、作家の辺見庸氏が語った言葉についての考察です。
年明けに起こった能登半島地震を目の当たりにした今、私たちも探している言葉に明快な答えを出します。

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2014年3月13日 <社会上意識の罠>

修錬者のブログに辺見庸氏のことが書かれている。
彼は石巻出身で、三年前からの震災報道や対応について、聞き心地の良い言葉だけでの報道に違和感を覚え、

「悲劇にあって人を救うのはうわべの優しさではない。
 悲劇の本質にみあう、深みを持つ言葉だけだ。
 それを今も探している」
と言っている。

探さないよりは、探した方が良いけれども、めくらの手探りのようなものだよなあ。
(「めくら」と書くと、「めくじら」たてる人が居ると思いますが、差別している訳ではありません。伝統的な語彙を使っているだけです。「めくら」や「つんぼ」の言い換えも、耳障りだと思い込んで、その結果の言葉の排斥によって、薄っぺらい、うわべの優しさで誤魔化しているに過ぎません。)

僕は、
「悲劇にあって人を救うのはうわべの優しさではない。
 悲劇の本質に通ずる行動は、精妙な響きを持つ言霊だけから起こることが判っている。
 その言霊は、修練の蓄積と養徳から生まれる。」
のように書き換えて頂くよう、要望したい。