前回のブログで能力が大きく開発された過程が書いてありましたが、思わぬところに落とし穴があったようです。

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2013年1月2日 <元極功法習い始めの頃>

人の体の不調箇所が的確に判るようになってくるのと同時に、その不調が、自分に感じるのです。

痛い、苦しい、不快だ、気持ち悪い。
こんな症状が本人同様、自分にも襲ってくるのです。

人の為に、人の不調箇所が判り、対処してあげられる能力がつくことは素晴らしいのですが、次から次へと襲ってくるその不快感には耐えられません。

どんどん鋭敏になってくるその能力は、そのうち道ですれ違う人の不調まで拾って、こちらが不快になってくるようになりました。

「掛け金を下ろす」

そんなとき浮かんだのが、この言葉でした。
その小説「家族八景」を読んでからその時まで、既に二十年近く経っていたと思いますが、何故かこの言葉が蘇ってきたのです。

人の悪い箇所を感じるセンサーの扉を閉めて「掛け金を下ろす」ことを練習したのです。

やって行くうちに、うまくできるように為るではありませんか。

以来、体を観る依頼があったとき以外は、いつも「掛け金を下ろして」います。

そして、私が教えているスタッフ達には、「観ること」や「功法」の安売りはするな、といつも言っています。

なぜなら、安いとこちらの苦労が伝わらない。

相手が自分の病気を、自分で治そうとしない。

功法の価値が相手に判らない。

・・・・からです。

数百万円、数千万円掛けても、現代最新科学や医療でできないことを実現するにも関わらず、「500円」で、して貰おうとする人が後を絶ちません。

「掛け金を下ろす」ことは、我々が観る人から貰ってしまう悪いモノから為る「自分の肉体の不調」や、相手との認識のギャップから起こる、「人助けを継続する気持ちが萎えそうになる」のを、ガードする、唯一の方法なのです。

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